手から漏れたもの

 

 私の席から少し離れた窓辺の席に、彼は座っていた。


 ピンと張った背筋と、そこからスッと伸びる首。浅黒く日焼けした肌が、Yシャツの白をより映えて見せた。彼は視線を手元の本に落としたまま、少しも動かない。

 たった10分の休み時間。

 彼の周りにあるものは、たとえば机に突っ伏して寝ている生徒、イヤホンを分け合って音楽を聴いている女子、「昨日のドラマ見た―?」という甲高い声、男子生徒が投げ合って遊ぶ消しゴム。

 

 その中に一人佇む、彼の背中。


 そこだけ時間が止まっているようだった。そして、それを見つめる私もまた、彼の時間の中にいるような、そんな錯覚がした。


 窓から漏れる光が、河元耕平の横顔を照らす。その時初めて、山井琴美は男を美しいと思った。

 


 高校生は大人ですか? 子供ですか?
 私は子供だと思う。高校生は自分で責任を取ることを知らないし、いつだって親のせい、先生のせいにできる。罪を犯してもテレビに顔は出ないし、環境のせいにもできる。口を噤めばきっと、いい風に捉えてくれる。受験でのストレスでとか、学校内の人間関係でとか、親との折り合いでとか。


 要は都合のいい職業:学生。割引だって利くしね。


 JKという言葉で括られる、この限られた時間が私は好きだった。その言葉に価値を見出す大人も多いし、制服という武器も手に入れた。うまく着こなして、上手に化粧をすればそれなりにも見える。学校で一番でなくてもいい。それでも大人は、お金を出すのだから。


 3万円。

 初めて自分が買われたとき、こんなに貰えるのか、と驚愕した。3万円。普通にアルバイトしたら、30時間は働かないといけないものを、こんな数時間で貰えるなんて。私にそれほどの価値を払う大人がいるなんて。


 正直、感激した。そして、私は見事にそれに嵌った。

 


 駅前の喫茶店で待ち合わせをして、簡単な会話を済ませたら、その近くのラブホテルに赴く。男は30代から50代まで幅広い。妻帯者や世帯持ちも珍しくなかった。

 彼らは女子高生に性的なものを求めて金銭を払っているくせに、会うとなぜか誠実な男を演じたがる。自分が出来る男だとでも思いたいのか、それを遊びでやっているという感覚があるのかどうかも分からない。でも、私はそれに全力で乗ってあげる。なぜならこれは、仕事だから。


 「はじめましてー」


 『初めまして。緊張してる?』


 「はい、ネットで話してた人と会うの初めてなんで、緊張してます。

 えっと、なんて呼べばいいですか?」


 『たける、でいいよ。ユウさん、だっけ?』


 「はい」


 『かわいいね』


 何回繰り返しただろうか。この使い古された定型文を、私は全力で演じる。ここに気を抜いては台無し。きっと次はない。
 恐らく男も違う相手で、同じようにこの会話を繰り返してきたのだろう。試すような目で、私の全体を見る。頭、顔、持っている鞄。そして、視線を上げてもう一度私に目を合わせる。その軌道が微かに私の胸元を通ったことを、私は見逃さない。


 『じゃあ、行こうか』


 あ、はい。生返事をして、席を立った。

 高校はどこか、将来の夢はなにか、とかそんなことを聞かれていた気がするが、あまり記憶にない。ほとんど無自覚に嘘を答えていたからだろう。ただ、相手の男が顔を訝しげながら『最近の女子高生は』となぜだか侮蔑的な言い回しをしていたことは、鼻についたので覚えている。


 それを買ったお前が言うな。


 向かったラブホテルは一見、その類には見えない様相をしていた。ホテルの周りには南国を思わせるヤシの木が埋められていて、外観は西洋のお城をモチーフにしているのだと分かる。知らない人が勝手を知らずに間違えて入ってしまわないのだろうか。


 男の車(高級車ではない)がその入り口に差し掛かるとき、男は言った。


 『顔、隠しといて』


 そう言って、後部座席に無造作に置いてあったブランケットを私に渡す。言われるままに、私はそのブランケットを頭に覆い、顔を隠した。ブランケットで遮られる視界の中で、私は小さく呟いてみた「クズが」。もちろん、男には聞こえないように。


 車は、空港の荷物受け取り場所のように黒い細切りの暖簾を抜けると、エントランスを通らずにそのまま部屋に行けるようになっている。そして帰る際は、部屋に備え付けの精算機で支払いを済ませることができる。つまり、誰にも知られずセックスに勤しむことができるように工夫が凝らされているのだった。


 『とりあえずシャワーを浴びてきなよ』


 女に先にシャワーを浴びさせるのは、男がシャワーを浴びている時に女が財布を盗んで帰るのを防ぐためだと、誰かに聞いたことがあった。この男もその経験があるのだろうか。でも、私が被害にあう事だって例外じゃない。だから私は現金を持たず、交通ICにお金を入れている。


 薄いパーテーションで区切られたシャワールームで、私は念入りに陰部を洗った。髪と顔は濡らさない。乾かしたり、化粧水を塗ったりと、あとで面倒くさいから。よくある映画のシャワーシーンのように、頭からお湯を被るということもない。


 ぽたぽたと滴る水滴をタオルで拭いながら、私はベッド脇に座った。スーツ姿のまま横になっている男が私の背中をサラリと触ってきた。 


 『肌、きれいだね』


 男はまだ乾ききらない私の体をベッドに押し倒し、その上に覆いかぶさった。まだこの人シャワー浴びてないのになぁ、と内心で思いながら、顔面の筋肉を目いっぱい使って、おどおどした表情を作ってみせる。


 おそらくこの人の中では、物語が出来ているんだろうな。右も左もわからない女の子に、性の手ほどきを与えるオレ。女の子は、そのハジメテにビクビクしながらも、体はその快感を知ってしまって・・・・・・とか、そんなとこか。


 もちろん、そこにはお金を渡した事実なんて入っていない。


 私は、この男の物語をそんな風に想像しながら、そしてその想像通りの女の子を演じながら、心では別のことを想っていた。教室の隅で、いつも何かの本を読みながら、ひとり佇む彼の一筋の背中。河元くん、河元くん、河元くん。


 河元くん、彼女はいますか?


 ひっくり返ったカエルのような形をして、天井を見上げた。男がその上に覆いかぶさるようにして、腰を小刻みに動かすたびに、私は短い喘ぎ声をあげる。


 河元くんもこんな風にセックスするのかな。


 私は覆いかぶさる男の肩を強く抱いた。天井にはなぜか鏡がついていて、そこにはだらしない体形をした男の背中にしがみつく、ブサイクな女が映っている。
 河元くんは、私なんか選ばないか。


 『もう、いくよ』


 謎の宣言をしてから、男は射った。コンドームは付けていたけど、ドロドロとした熱い塊が胃の奥に押し込まれたような不快感がある。頭上に置いてあったティッシュで陰部を拭いている間、男はさっさとパンツをはいて身支度を整えていた。私はもう一度シャワーを浴びたかったけど、そんな雰囲気でも無くて、下腹部に不快感を残したまま、駅まで送ってもらった。もちろん、お金を貰ってから。


 河元くんは、いま何をしているんだろう。

 

「太陽の坐る場所」あの教室に残したもの

 

 

「太陽の坐る場所」を読み終わってわたしの胸に占めた感情は、まぎれもなく(怖い!)だ。

 

 こんなにも人の心をあけすけにしてしまう小説があったとは知らなかった!

 

 醜くてみっともない、人には決して悟られたくない心の部分を描く、本作。

 

 何より怖いのは、それを描くことができる作家の力だ。

 

 辻村深月さん、、、何者!?

 

 わたしが辻村深月さんを知るきっかけになったのが本作だっただけに、その印象は強烈だった。

 

 

 この物語は高校卒業から10年後を軸として進んでいるにいも関わらず、それぞれの章は高校時代の出席番号が振られている。

 

 

 出席番号二十二番、半田聡美

 出席番号一番、里見紗江子

 出席番号二十七番、水上由希

 出席番号二番、島津謙太

 出席番号七番、高間響子

 

 

 彼/彼女たちを取り巻く環境は、そこまでひどいものではない。それぞれに、夢があり、仕事があり、恋愛がある。

 

 ある程度、普通で一般的。

 

 しかし、元同級生のキョウコの存在は、普通ではなかった。

 

 都心のビルに特大パネルが設けられるほどの女優。映画にテレビにと、まさに画面の向こうの人になっていた。

 

 

 私は?私の人生は、、?

 

 自分の人生、今周りにあるもの、手に入れたもの、手に入るはずだったもの。 

 

 それがよぎらないはずがない。

 

 

 出席番号二十二番、半田聡美はキョウコに引けをとらない美人である。

 

『うちのクラスで一番かわいい子っていうと、私はダントツで聡美だと思ってたんだけど、わかんないもんだね。(省略)』

 

 水上由希がこう言うように、半田聡美は高校の頃も、そして十年経った今でも美人なのだ。

 それゆえに

聡美は、あの映画もキョウコの踊りも見ていない。

 

 半田聡美にとって、キョウコの存在は受け入れがたいものだった。高校時代、同じ教室に確かにいたはずのキョウコ。

 

何が違ったのだろう。

 

 半田聡美は、28歳となった今も演劇を続け、キョウコが今輝いている世界を目指すものの一人だった。

 

私はあそこにいるような、ただテレビを見ているだけのあいつらとは違う。

 

 完全に違う世界の、違う人間だとは位置づけられない。そういう認識にはしたくない。 

 しかしそれを表には出さない。羨ましいと素直に言えないほど、羨ましい。

 

 大人特有の、複雑に入り組んでしまった感情が見事に描かれている。

 

 

 出席番号一番、里見紗江子。 

 

 彼女の物語は、小学四年生の夏の場面から始まる。

 

 校舎の玄関、私の靴箱から何かを取り出す、貴恵の姿。

 

 貴恵はそこから手紙を取り出し、中を見ると、急いでそれを破った————

 

 

 里見紗江子にとってその記憶は、大人になった今でも思い起こしてしまう程に重要で、一種の呪縛ともとれるものである。

 

 

 里見紗江子から見える景色は、半田聡美とは違う。

 

 同じ教室に、キョウコや半田聡美などの美人が、それほどに美人でないにしろ、独特の雰囲気で男にモテる貴恵がいる中で、彼女はこう悟る。

 

私は独身でいるのだろう。十七歳の紗江子は漠然と感じていた。

 

 十七歳にしては早すぎる悟り。しかし、諦めることで、手に入らないことを認めることで、立ち位置を確立できる。

 

 あぁ、その感じ・・・・・。暴かないでくれ!と叫びたくなるほど、わかる。

 

私は降りています。最初から何も期待してなんかいない。自覚があるのだから、だからお願い。比べないで。

 

 しかし、28歳となった今、里見紗江子の状況は十七歳のあの頃とは違う。

 

 真崎修。

 

 貴恵が高校の頃付き合っていた男と、関係を持つようになっていたのだ。

 

だって、好きだった。

私は、美しい男が好きだった。

貴恵を通してしか見ることのできなかった世界。

 

 彼女のいつかの悟りは脆く崩れ、新しいカギとして真崎修を手に入れた。しかし、真崎修というカギもまた、既婚者だという脆さがあるのだ。

 

 小学四年、貴恵はどうして手紙を破ったのか?

 

 これ以上語るのは、野暮かもしれない。

 

 

 出席番号二十七番、水上由希。

 

 父と祖母との三人暮らしだった彼女は、祖母の手製の服を着せられるような子どもだった。

 

「由希ちゃんは、田舎の子供みたいな服ばっか着てる」

 

 小学校時代にそういった苦い記憶を持つ彼女は、華やかでおしゃれな場所を貪欲に求める。

 

このビルの、この匂いのする場所に入ることができるなら、バレない嘘は真実と同じだ。

 

 元同級生たちにはアパレルブランドの職員と偽っているものの、実際には臨時のアルバイトである彼女だが、その嘘には一貫したポリシーが感じられる。

 

好き好んでこの哲学を選び、この背骨で胸を張る

 

 華やかな世界が好きだ、ということ。それを貪欲に求めていること。

 

 それでいて、聡美やキョウコほどに美人ではないという自覚も持ち合わせている。

 

 彼女はそれを認めているからこそ、強い。

 

 

 出席番号二番、島津謙太。

 

 この本、唯一の男主人公。

 

 男は無邪気で計算がない、というのは嘘で、島津もまた、その立ち位置を意識していた。

 

もちろん、相変わらず女子と話もできないような男子もいたが、それを横目に見ながら、島津は自分のポジションを改めて再認識したものだ。

自分と彼らは違う。真崎や清瀬ほどではないが、彼らまでも自分を落とし込む必要もまたないのだと。

 

 清瀬とは、清瀬陽平。キョウコが当時付き合っていた男だ。

 

 島津は高校時代こそ、清瀬や真崎と遊び、聡美や由希などの華やかな女子に囲まれた生活を送っていたが、大学を出るとそうはいかなくなる。

 

島津くんのあれ、セクハラじゃない?

 

 職場でそう陰口をたたかれる始末。

 

 自分はこうじゃない。こんなはずじゃない、と縋る思いで、島津はクラス会の主催に躍起になっている。由希や聡美、キョウコがいたあの教室こそ居場所だと思いたい。

 

 しかし、それと同時に、当時の罪も思い起こされる。

 

 バーバリーの傘を見るたびに・・・・・・。

 

 

 最後、出席番号七番、高間響子。

 

 彼女は未だに高校時代に取り残されていた。

 

 華やかなテレビの世界の、充実した仕事がありながら、あの時、自分がしてしまったことの代償を背負い続けている。

 

太陽はどこにあっても明るいのよ

 

 その言葉を、かみ砕くように・・・・・・。

 

 

 大人になった今でも、子供の頃の記憶の力はすさまじい。

 

 それが骨や肉になることもあるし、自分を縛る縄になることもある。

 

 心の奥底にしまってあったあの感覚を、今感じているこの気持ちを、この小説はえぐるように描いてしまっている。ホントに怖い!

 

 

 わたしの出席番号は何番だろう?

 

 

 いまから読む方は、覚悟をもって挑んでください。

 

 

 「太陽の坐る場所」 辻村深月 文芸春秋社

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